#夜ごとの一太刀
zn11 巻末小説 · 真剣度 ★★ · 純粋・香(フィクション)。規則・数値は出てこない。
右の二の腕に、薄く白い筋が走っている。
三年前、名も知らぬ浪人に斬られた痕だ。木賃宿の裏で、銭をめぐる些細な行きがかりだった。抜いた、と思った時にはもう、相手の切先が腕にあった。地に膝をつき、見上げた男の顔は、勝ち誇ってさえいなかった。ただ、当たり前のものを当たり前に拾うような顔をしていた。
伊三郎には師がいない。道場もない。同門と呼べる者もいない。盗み見た形と、受けた傷だけが、彼の師だった。
あの一太刀が、いまも夜ごと腕の中で疼く。
なぜ斬られたのか。
伊三郎はそればかりを考えた。間合は遠くなかった。抜きも遅くはなかった。なのに、相手の刃は先に着いた。
幾夜もかけて、彼はあの一瞬を解いていった。記憶を、絹をほぐすように一筋ずつ。
――あの男は、抜く前に半歩、右足を沈めていた。 ――おれの目は切先を追っていた。だが斬ったのは、切先ではなかった。腰だ。沈めた腰が、刃を運んだのだ。
ある晩、伊三郎は土間に下り、囲炉裏の炭の燃え残りで地に二本の線を引いた。己が退いた線。男の刃が伸びた線。二本は、己が退いたまさにその先で交わっていた。考えるだけでは闇に溶けてしまう一瞬が、地の上では動かぬ一点になった。彼は交わる点に指を置いた。
――ここだ。
ここを半歩、先に潰す。退くと見せて、退いた先で待つのではなく、相手が「退いた先」を狙って伸びる、その半拍の裏へ回り込む。
闇の中で、伊三郎は何度も右足を沈めた。畳の縁に爪先をかけ、腰の重みだけで体を送る。手はまだ動かさぬ。手が動くより先に、体が着いている――その理を、肉に刻もうとした。
幾度も転んだ。膝が擦り切れた。それでも、解いた手は試さねば己のものにならぬ。
夏が過ぎ、また夏が来た。
野原で、川辺で、人の見ぬ刻限に、伊三郎は一人で抜き続けた。沈める。送る。着ける。沈める、送る、着ける。やがて手と腰の境が消えた。考えることをやめても、体が先に間合を盗むようになった。
ある朝、彼は萱の穂を一本立て、十間を隔てて向き合った。
息を下ろす。穂先が、朝靄の中で微かに揺れている。
――いま。
踏み込んだ覚えはなかった。気づけば、穂は半ばで断たれ、切口が朝日に光っていた。伊三郎の刃は、すでに鞘へ戻りかけていた。考える前に、体が一つの動きを選んでいた。幾夜もの素振りと、地に引いた二本の線とが、勝手にひとつになって出た一手だった。
腕の白い筋が、その時はじめて、疼かなかった。
斬られた傷が、技になった。
受けた一太刀を、彼は三年かけて裏返した。盗んだのではない。あの男のものでもない。観て、解いて、試して――己の肉から立ち上がった、伊三郎ただ一人の太刀だった。
名を、と思った。
形に名がなければ、それは技ではない。ただの癖だ。名を与えて初めて、人は一つの形を一生かけて守る覚悟を持つ。そして――名を呼べば、この一手は次もまた、現れてくれる。
夕暮れ、川面に己の影を映しながら、伊三郎は静かに口にした。
「――沈み」
腰を沈め、傷を沈め、三年の夜を沈めて、ようやく浮かび上がった一太刀。
その名を呼んだ時、彼は確かに聞いた。己の裡で、何かがそっと頷くのを。師のいない男に、ただ一つ授けられた声のように。
伊三郎は、もう浪人ではなかった。名のある一太刀を持つ者だった。
腕の白い筋を、彼は指でなぞった。もはや痛みではなく、――一つの形の、生まれた跡だった。
(了)


